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木下恵介アワー「二人の世界」 [連ドラ]

06/06(火) 17:00 - BS松竹東急|30分|12倍録
[新]木下恵介アワ―「二人の世界」 #1[字]
07/11(火) 17:00 - BS松竹東急|30分|12倍録
木下恵介アワ―「二人の世界」 #26[終][字]

オリジナルは1970年。「木下恵介アワー」
あまり見る気にならないまま、でもほかも見る気がせず。見ないならそのまま削除、見るならタイミングは今、という中で第1話をなんとなく流し始めるという形で見始める。
冒頭の「ツカミ」がいただけない。イタリアの古い民謡歌手アルマンド・ロメオのコンサート、前売り切符は徹夜で並ぶ人も出て完売、当日券も少しはあったが、それもあっという間に売れてしまっている人気コンサート、そのコンサートの開催中に主人公の二郎が押し掛け、切符は持ってないけど見たいんだから入れてくれ、補助席出してくれ、一番高い席の席料を払うと支配人に無理難題。これが作品世界の善玉であろう人物の最初の挙動であり、この無理難題は「こんなに見たいんだからいいじゃないか」という理屈で、相手をひどいやつだとこき下ろす。
こういうのが笑いを起こすためでなく行われると萎える。コントなんかで変な挙動をする人間が延々変なことを言うみたいな状況だ。
この時代だとこれは変なやつと思われずに見れたのか、という疑念。
流行だとか時代の空気感だとかそういうものの移り変わりを「現代」を舞台にした「過去」のドラマなんかを見るとよく感じる。「王様のレストラン」なんかもそうだったが、製作年度に開きがあり、また
別な印象
「流行」といったが、これは瞬間風速的な、1年単位、1か月単位の流行のことをいってるのではなく、ある意味おれなんかは2000年以降積極的に外に出てもいないくらいなので、2000年以降は全て同じだと思ってる(いや、ネットの発展という、影響を受けないわけにはいかないことがあったので、そこで色々自分も世界も変わったがそれはまたべつの話だ)。ここでいう流行はもうちょっと長いスパンのものである。
でも、こういうことは、『3人家族』を見たときにすでに感じていたことでもあり、それがあまり見る気にならない理由でもあったのだ。
さて、この場面、もう一人の主人公の麗子も会場にやってきており、そしてそれが二郎と同じ理由(つまり人気コンサートに券も持たずやってきた)で訪れた客らしいということで、そこが二人の出会いとなる。
この後の展開も、この頃の男女の考え方、つきあい方というものが今とずいぶん違うなあと感じさせる。「今」のことはおれも知らないや、まあ「今」というより「後年」とはずいぶん違うと言い換えよう。
現代舞台のテレビドラマというのは突飛な設定や登場人物があったとしてもバックボーンとなる大きな背景としてはその現代の当たり前をベースにしているはずで、そこらが今(というか後年、以下略)とは全然違うことに驚愕、当時の視聴者が驚く場面でないところで驚いているという風になってしまう。
今のところ第2話まで視聴
1回かぎりのゲストとしては近藤洋介がコンサート会場の支配人。あとは、大体レギュラーばかりのようだな。
あおい輝彦、出演もしているが、またもや主題歌。この枠の常連か。
いまウィキを見て知ったが、週に1回、夜放送の30分ドラマという形態。俺はまとめ見だし、溜めた朝の連ドラを見るような感覚だが、当時はこんなのを1週置きに見せられても、1回が短すぎて非常に物足りないんじゃなかろうか

※追記
同日第3、4話視聴、そして第5話途中まで
今作は二人の結婚生活というところがテーマとのこと(先にウィキを少し見た)
ということで結婚してからが本題であろうと思い、結婚するところまで見ておこうかと思ったが、ちょっと眠くなってきたのでここで一旦中断。
第4話で二郎が榊原家を訪問、第5話の序盤で結婚の申し込みと麗子の両親の戸惑いが描かれていた。
明日また第5話最初から見直すかもしれない。
結婚生活がテーマということで、出会ってからすぐ惚れ合って結婚という無理な設定なのだろう。
まだ出てきていない田舎に暮らす二郎の家族というのも出てくるそうだし。
でも、ドラマは結婚してすぐから始めてもいいし、結婚して2、3年後からでもいいし、もしくは交際して数年で結婚を意識しだした、もしくは結婚を控えてるという時点から始めてもいいような気がする。最初にナレーションでそのカップルの説明を入れればいいことだし。

※追記7/14
第5話の続きから視聴、第6,7話まで
第5話ではその後、上に書いた二郎の家族が早速登場、そして最後は結婚式の様子、第5話の序盤では麗子の両親は二郎の結婚申し込みについていい顔してなかったはずだが、その懸念のあれこれはすっ飛ばす演出で、ナレーションで子供の言うなりになるしかなかった、というような感じですませていた。
そして第5話の最後のところのナレーションでは先に書いたように結婚生活がテーマということの宣言とでもいうか「この物語の本当の始まりはここからである」と。
第6話は新婚旅行から帰ってくるところ、第7話では忙しそうな二郎だが、合間を見つけて麗子と外食。各回の終わり方が続きを早く見たいという感じではさほどない。この回では次回以降何か起こりそうという雰囲気を醸し出すナレーションで終わっているが。
※追記同日
第10話まで
自らのせいではなく上層部の出した条件の見込みが甘いことが原因で契約が取れず、その責任を営業担当出会った二人が負わされ総務へ左遷されることになり、同僚(東野孝彦)はそれを機に会社を辞め作曲家になると言い出すというのが第8話と9話で展開。
第10話の第3幕では近所にできたスナックに夫婦で行く。
おれは先にウィキを少し見たとすでに書いたが、確か二人で喫茶店をやる話だったかと思って(喫茶店ではなくスナックで会った)おり、しかしそんな素振りは全然なく、見間違い記憶違いかなとも思っていたが、この回の終幕でなるほどこういう展開か、と。
二郎が左遷され、その悩み苦しみを分かち合いたいと麗子は思うが、二郎に拒絶され、周りからも気にするなと言われ、麗子は焦燥感にかられ、そんなときそのスナックへ行き夫婦で働くのを見て、麗子は夫婦で一緒に働いているのを見て感じ入る。
で、次回にはスナック始めるのかなと思ったが、そこはそうではないようで、最後のナレーション(「時がたってその印象(スナックで働く夫婦の姿がふたりに強い印象を残していた)が一つの力となるのである)を聞く限り、スナックを始めるまではまだ時間かかかりそう。
現代舞台の古いドラマへの違和感を上に書いたが、その理由をふたつ見つけた。
まずドラマ全体があまり綿密に作られていないという感じで、今の作品はとにかく綿密に作られている。いや今は多様性の時代というか、作品数がたくさんあり、その中でも見る価値のありそうなものは、という意味あい。金をかけずに、わざとズボラに作ったり、とか、それこそ孤独のグルメのようにある層にだけ向けて作るような作品があったりはする。ただ一方で優秀な作品、もしくはそう見られたい作品はとにかく細かくすべての場面に配慮されていて、伏線があり、それが回収され、とか、テーマの掘り下げなんかも見てるこっちがかったるくなるほどちゃんとやる。
そういうのがあまりなく拍子抜けみたいな感じが今作品にはある。
そしてもう一つ。
何気ないセリフだとか、場面の演出から浮かび上がる感覚として、今ではあり得ない描写だなと思えるものがたくさん。この作品のテーマが夫婦だからだが、今作品でそれが一番感じられるのは夫婦における男女の役割だとか、そもそもの男女の格差問題だとかの価値観が今とは全然違っており、こんなセリフだとそれ一つで大炎上しそうなものがゴロゴロ。こういうのが積み重なっていくことで作り上げられており、それゆえ今の感覚で見ているおれにとっては違和感この上ないということになるのだな、と。


※追記同日
第11話
前回までに、とくに麗子がだが、近所に開業したスナックに魅せられる描写があり、彼らの今後が示唆されていたが、今回では二郎が会社を辞めるという方向に気持ちが動くという内容。ただ、それも麗子との会話の中で長々とやっていたが、まあ、嫌だから辞める、不満だから辞める、辞めるという方向性もあっていいというような稚拙なもので、ただダラダラしてるだけという気がする。二郎の悩みを分かち合いたいと麗子が思う描写のあたりも結構長々とやっていたが、ここら辺も巧みに描かれていたという風でなく、ただ退屈だったが、ここら辺もそう
次回には二郎は会社を辞めるのかなあ。

※追記7/15、16
12、13話
12話3幕で加藤嘉登場、屋台のラーメン屋で、ここで二郎は会社を辞める決心を固める
13話では二郎が田舎へ帰り借金の申し込み、兄の一郎(菅貫太郎)、それを聞いて最初は怒るが、二郎が戻る段になり、ちょっとした優しさを見せる。多分今作品に悪役というようなものは出てこないと思われる、一郎も初登場のところで二郎の犠牲になったというようなすねた面を見せており、ちょっと悪役風であるが、この後二郎と決定的対立をするというような筋にはなるまい

14、15話
14話では麗子が働きに出ることになり、そこの社長が太宰久雄、寅さんでの裏の社長とほぼ同じキャラ。
15話では関根が生活がうまくいってないようで借金をしに来て、5万円を貸すことにするも、そのことで後で夫婦喧嘩。関根は作曲家になるといい、髭面(付け髭だと言っていたが)だったのだが、ここでは髭は剃り落としている
恒雄は片桐に店番をしていた男について悪く言い、うまくいかなくなっていく様子。といってもそれまでも恋人ではなく恒雄の片思いだったわけだが。

16-18話
16
二郎、辞表の提出、そして退職
弟 告白しようとして拒絶される
17
二郎、修行のため、スナックで働き始める
不動産の周旋屋、佐山俊二登場
18
佐山俊二が前回に続いて登場、ここは彼のコメディの資質を生かした演出。ベラベラとおしゃべりでちょっとインチキっぽい感じ。寅さんでも彼は不動産屋の役をやった回があったと思う。
二郎は彼に物件を勧められ、契約寸前まで行くも、遼一の二郎の気持ちがわかる、自分にもこれに参加させてほしい、自分も金を出すからもうちょっといいところをという話を聞き、結局断ることにする。
今度は恒雄がいい店があると話を持ち込んでくる。この店の前のオーナーが川口敦子。二郎は彼女の対応にちょっと不信感があり、近所で話を聞いてみることにする。ここで出てくるのが、「お茶屋のおばさん・トヨ: 武智豊子:で彼女が結構長々と喋る場面となる。結局そこを自分の店として契約することになる
19-21話
19
スナックの名前はトムと決まる
開店2日前、一郎が訪ねてくる
開店前日、夜には近しい人を集めてのパーティー。太宰久雄が参加しており、二回目の出演
そして開店当日の朝
20
開店初日の色々
恒雄は片桐の家に行き久しぶりに会うがもう来ないよと別れを告げる
小野寺昭がキャストクレジットにあった。開店初日ということで色々な客が訪れており、もしかしたらそのうちの一人で気付かなかったかなと思っていたが、終盤になって目立つ形で登場、やはり客のひとりだが。ほんの少し訛ってる感じがあり、彼が出ていくと二郎がその訛りを東北だなと言っている。もっと大きく訛らせないとわからないのでは、と思うが、そうするとまた与える印象が違ってしまうだろう
21☆
録画不良で頭が欠けていた(3分強)
開店二日目
小野寺昭また登場、常連客となったようである
ちょっとしたトラブル、この回の冒頭で18話に出てきたトヨがトムを訪れておしゃべり。そこで近所の商店の若い奴らをここにも来るように言っておこうとなったのだが、その客がやってくるも、ちょっと酔っ払っての大声での会話、ツケの払いを頼むと、これを麗子が嫌い憎まれ口で追い出すという形になってしまい、二郎はそれを後で咎める
開店から1ヶ月くらいが経ち、近くに大きなスナック(「うぐいす」)ができることわかる
スナックというのはどういう業種なのだろうか、おれは酒を飲むところだと思っていたが、ここは食事がメインっぽい。

※追記7/17
22話
自分たちの店に特色を出そうと沖田に助けを求めることにする(前回、終盤で沖田に頼もうかという話が出ている)。沖田はその相談を快く受ける。またこの回では関根が女の子三人を連れて店を訪れる。島根県出身のその子たちは「ラビッツ」という女性歌手三人組で、関根がデビュー曲を担当。歌ってみせようとなり、関根がイントロを口でやり、歌に入る直前で映像は終わってる
うぐいすの店主の本木親子が挨拶に訪れる、これが内田朝雄と小坂一也。
23話
沖田はカレー、そしてハンバーグ弁当を伝授する。カレーは150円、ハンバーグ弁当はサラダ付きで100円、サラダなしで80円。宣伝ビラを貼りやる気満々、するとその発売日の開店前にスナック「うぐいす」(競合店)の親子がやってきてカレーを食べていく。
当日は昼にいつも通り満員になるだけで手ごたえはなかったものの、昼過ぎにハンバーグ弁当20個の注文、昼に買って行った女性工員、二個買って1個を社長に取り上げられ、それが好評でおやつの時間にみんなで食べるというのだ。
それなりに好評で沖田に礼に行く二郎、だが翌日からうぐいすでは10円安いカレーライスとカツサンドが弁当が売り出された。
24-26(最終回)
24
沖田に誘われ、3人でうぐいすに偵察。しかし沖田は一口食って出て行ってしまい、あとで電話で二郎に「まずかったなあ」と。
その晩本木がやってきて、因縁をつけ二郎を殴る。
が、翌日父に伴われて本木が謝罪。この父親のキャラが面白い、商売をずっとやってきたのだろう、ちょっと裏社会とも繋がってるのかな、言葉の所々にぶっそうな言葉がありながら、にこやか、そして息子にはドスを利かせて叱る。二郎はこの謝罪について「一種の脅迫」とこぼしている
本木が二郎を殴った時に店にいた学生の客が、因縁をつけられるほど旨いカレーと触れ回り、学生の客が大勢で訪れる。
25
恒雄は片桐とはもう会わないつもりだったが、フィアンセである黒崎と偶然に会い、結婚おめでとうと言うも、黒崎は彼女を遊び相手にしか思っておらず、つい殴ってしまい、そのことを片桐に教えに行く。
沖田がトムを訪れ何かを話そうとするるも忙しくしており、あまり相手にできず、という一場面がある。
麗子が妊娠を告げる
26
沖田を招待しての食事会、そこで沖田はこの前話そうとしていたことを話す。
銀座の店から引き抜きが入り、でもどこの店へ行っても変わりはないから、と言い、そして二郎の店で働かせてくれないかと言い出す。ここは唐突でとても変、今の店に勤めているわけで、引き抜きは断るにしても・・・、である。まあ、想像を働かすに、引き抜きのことがあり、どこの店でやっても同じという風に張り合いがなくなった、また、子供たちはもう独立して自分の助けはいらないため、自分が食う分だけ稼げばいいのだが、もう貯えとして老後の分まで十分にあり、張り合いのためにあなたたちと働きたい、ということなのだろう。
ある日近くの飯場の作業員の送別会をやることになる。しかしその日は二郎の両親と兄がやってくる日。でも、うちの店が東京の思い出の味になるならと引き受ける。
麗子が料理の相談ということで電話をかけると、沖田はやってきて、キッチンに入る。麗子は妊娠の影響で気分が悪くなるも、そんなこんなで送別会はうまくいく。
狭い控室にいる麗子とそれを気遣う二郎の会話に続いて、ナレーション「確かに何もかもがこれからなのである。何ひとつ終わったものはなく、二人の世界は明日に向かって開けていた。子供が生まれる、他人と一緒の仕事が始まる、レストランに変えていく計画がある、こうした物語の終わりこそ2人にはふさわしいと私たちは思った」その送別会がうまく運んでいる様子と控室の二人、そしてナレーションが終わると主題歌に乗せて、これまでの場面の映像、で終わっていく。ここでのナレーションの中の「私たち」は製作者を指している
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番組の冒頭ではがナレーションであり、映像の方は前回の描く場面の静止画像が数枚流れる(第1話、24-26話を除く)。前回までの振り返りといっても「こんなことがあって、こんなことがあって」と個別のエピソードが語られるというよりも、第1話から前回までの大まかな流れのとその中での二郎や麗子の心象を織り交ぜながら今回のストーリーの前振りになっていくという感じである。
クレジットの文字の大きさが一定していないのが不思議だ。第1、2話と小さめだが第3、4話ではかなり大きくなり、第5話では少し小さく、でも第1話ほどでないという大きさ。
さらには第10話では、途中で表示される俳優(文野朋子、水原英子の並記)だけが大きくなっており、第3、4話から持って来たかのよう、調べてみると第4話ではこの二人が並記されており、他の回では、さまざまだが、単独表記だったり別の人との並記だったり。この二人は特別な人というわけでないので、統一性がなくかなり変な感じ。この回以降で「文野朋子、水原英子の並記」されている個所では大きくはなっておらず他と揃ったサイズだ。
10話からは文字の色が多少薄く変化している
三島雅夫が出演する回では、ナレーターの後にクレジット表示、いわゆるトメ。この位置は他に加藤嘉。
第3話ではナレーターの後に三名連記、第19話では四名連記(この連記されているのは重要な人ではないだろう、この項目のウィキにも掲載されていない)がなされている
この作品で特にそうだということはないが、何気ない小道具として、現代との差を大きく感じるのは「タバコ」と「電話」である。これはこの作品に限らず、この時代、というより、それが社会の中での位置が変わる前の時代の作品全てである

全体的に善男善女の甘ちゃん夫婦がなんとなくスナックを始めてなんとなくうまく行くというだけの話という感じ。ナレーションでもこの二人が甘いと捕えられる方もいるだろうが、みたいなことを何度も言っていたけど。
注目は三島雅夫。1話を見た時点ではこんなにガッツリとストーリーに絡むとは思わなかった。前の『3人家族』とほぼ同じ演技ということになるだろうが、ゆっくりめで語尾をちょっと伸ばす語り口が穏やかな人柄を表しているが、その喋り方が特徴あり過ぎて、「実は悪人」みたいにも想像できる(この二作品ではそんなことはまったくなく、見た目通りの善人過ぎるくらい善人だが)