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武士の一分 [映画]

2006年の時代劇映画。2点
監督:山田洋次
主演が木村拓哉ということで、見るつもりもなかったが、監督が山田洋次ということ、また、木村の演技もなかなかだという評価を聞き、見ることにした。
三村新之丞(木村拓哉)
三村加世(檀れい)
徳平(笹野高史)
島田藤弥(坂東三津五郎)

木村と檀の場面が多いのだが、演技力がちょっとダメだなあと思った。前半あたりはとくにそう思う。木村は時代劇風の演技に時折現代的な立ち振る舞いが出てしまい、檀はどこか軽いところがイマイチ。
といっても見てられないほどでなく、作品自体はよかった。
木村は途中で盲になってしまうのだが、なる前となってからで目の部分が変わっていて、盲になったからの表情には迫力があった。
ストーリーも変な部分はほとんどなくいい出来。

あえて変だと思った部分を3点。といってもストーリーに大きく関わる点ではない
主人公が盲になったことで親族会議が行われる。そしてその会議の長が加世にこれからどうするつもりか尋ね、加世は自分が仕事をしていく旨話すと、この家計のものが女中なぞだめだ、と反対が出る。ほかに意見を聞くと、城内の有力者に願い出て、なんとか禄をもらい続けられるようにできないかとの案。しかし、そのようなことを頼める有力者は既にこの世になく、加世にそのようなものを誰か知ってはいないかと尋ねる。加世は先般城下で出会った島田藤弥の名を挙げる。島田藤弥は城内の有力者であり、じゃあぜひ頼みに行け、そもそもおまえたちの家のことなのだから、と諭し、さあひと段落が着いたと隣の宴席へ。
この過程を見ると、加世を呼び出したはいいが、おまえたちのことだから自分で何とかしろ、でも加世が仕事に出ることは世間体が憚れるからだめだ、と言ってるだけなのだ。もちろんそういう身内という名の無責任さを描いているのだろうが、それにしても加世から頼んだわけでもないこのような会議でここまでその人の身になる案を出せないで、結果自分でやれみたいな無責任な進行はないと思った。
また加世も島田藤弥の名を出す必然性がない。加世と島田藤弥は薄い縁であり、あまりそういうことを願いたいとは思っていなかっただろうし、その時点でこの身内たちが三村家に何か支援してくれそうな気配もなく、その名を出せば上記のように自分で始末しろとなってしまうのだから、そうなるくらいなら、そこで名を出さずに、後に自分の判断で島田藤弥に願いたければ行けばよいのだ。
2つめ
ラスト近く。島田藤弥と新之丞の果し合い。島田藤弥のそこまでの描き方だと果し合いに出てくるように思えなかったのと、腕を新之丞に切り落とされた島田は最後腹を切ることになり、それもまた「武士の一分」と城内で云われるのだが、島田は腹を切るような人に見えなかったこと。ただおれは腕を切り落とされ、そこで切腹するのかと思っており、腕を切られる場面でここで腹を切るのかなと思い、そのとき浮かんだ懸念であった。実際はそうはならず、腕を落とされた島田は登城し、そこで顛末を尋ねられたが答えずに切腹、片腕斬られた武士は生きていられないと思い定めた上での切腹であったと、新之丞を尋ねた同僚が説明するのだが、ここら辺の説明は合点がいった。
3つめ
離縁させられた加世が徳平の計らいで飯炊き女として新之丞の家に戻る。そして飯を食べ始め、煮物を食べ、加世がこれを作ったことを悟った新之丞はその飯炊き女をこちらへ呼べと徳平に命じる。これを徳平は拒むのだが、ここはおかしい。徳平はこうなることを予測して加世を呼び寄せたはず。また、こうならなくても、飯炊き女としてこのまま雇い続け、新之丞のそばに加世を置こうとしたのであろうし、未来のいつかに悟られるかもしれないと予想していただろう。
今後ずっと悟られずにこの状態を続けるという未来もありうるかもしれないが、それは本意でないはずだし、少なくとも悟られてのち、それを隠そうとするのは不自然な気がした
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