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赤毛のアン [アニメ]

放映データ
MX 2020/4/6~10/26 毎週月曜日19.00-20.00 1回2話ずつという形態で始まったが、編成の都合だろう、30分番組で1回1話のときもある(終盤はずっとそう)
オリジナルについては有名な作品なので膨大で詳細なデータがネットにあると思われるので簡略に。
1979/01/07~1979/12/30  30分・50話 フジテレビ系列「世界名作劇場」の第5作目

高畑勲や宮崎駿が関わっている作品とのことで録画
最終回まで録り終え一気見しようと見始めた。
現在4話めまで見終えた
見てるうちに感想、印象も変わるだろうが、その時々どう思ったかを記すために、ここまでの印象。
冗長、ちょっと退屈。感心するところもあるが、退屈のほうが勝っており、見るの止めようかなとも思うくらい、
79年というとどれくらいなのかな。アニメを映画的な演出でやってるというところに感心したが、もうそんなのは当たり前だった時代だろうか。
主人公のアンがなんだかうざったい、空想好きで空気読めない娘。なんでこんな人物造形にしたのだろうとは思うが、そういう娘が周囲を明るくしていき愛されるみたいな話なのだろう、こういう人物造形が必須なのかもしれない。
声の演技もオーバーだなあと思う
伏線というか、次につながる、もしくは前の場面を受けてのセリフで、わかりやすい、というかわざとらしいセリフが多い。子供向けということもあろう。

※第10章まで視聴
普段の一気見のペースでは進まない。単につまらないのだ。
このシリーズは「第○○話」でなく「第○○章」となっている
この時点での各回の感想はない。
さきほど該当項目のウィキを斜め読み。
「本作品は原作を忠実に、そのまま映像化した作品として高い評価を受けている」とあり、上記のアンのうざったい性格も多分その通りなのだろうな。まあそのうざったく気に障る性格が、空想力豊かな少女というキャラを作ってるともいえる
養母となるマリラもアンの味方側なのだろうけど、性格がきつく当たりもきつい。これも原作通りなのだろう。マリラとマシュウが兄妹で両者ともこの年齢まで独身という、いまの時代だと変に思われそう(同居している)だが、この時代だとどうなのだろう。で、そういう人だから多少エキセントリックなのだろうな。
「前作までと同様に、アニメオリジナルのエピソードも存在」とある。
このシリーズは全50話、1年間放送したものであるが、放映日程から回数が決められたのだろう。
ただ原作はあるから大雑把なストーリーはその通りにして、あとは各エピソードを取捨選択、足りなかったらオリジナルエピソードがあるから伸縮自在なのだろうな、と思っていたがまさにその通りのようだ。
30分で1話。民放の1時間ドラマと比べるとぎっしりしているような気がするが、まあ気のせいだろう。1時間ドラマといっても、実際の時間は54分とかそういう風になっており、さらにCMやらキャストクレジットの入る部分を削れば45分くらいだろう。
こちらは30分でCMが短いせいかぎっしり話がつまってるように感じる
実際にはオープニングとエンディングに歌がかかり、さらに間に入るCMが短いが本編終了後にもCMが入ってるし、番組放映時間と本編時間の割合は同じようなものなのだと思う。1時間ドラマが実際54分というその部分だけの違いだ

※10/29
11-13話まで
あまり進まなかった。11-12話は2話でひとつのエピソード。この作品は連続ドラマであり、徐々に時間が進行してはいるものの、明確に同じエピソードを2話使ってやるような形、つまり前回の切れ目で次がどうなるのやらと気になるのは初めてかな。最初の方は舞台設定の構築だからそうなっていたはずだが、それ以外では、ということだ。
で、この11-12話がひどい、というかアンのうざさ爆発という感じで、よくこんな女の子をヒロインにしたなあ、これで最後までもつのかという感じがした。まあ最後まで見て、じっくり考えてみると、そうかあなるほどと思わないでもないのだけど。
アンがマリラのブローチを盗む、というか盗んだと疑われる。これが11話で、その時点でもう孤児院へ戻せよという感じがする。そうはせずにしかしマリラはアンを罰として部屋に閉じ込めることになる。
12話ではアンは自分がやったと告白。きらめきの湖に落としてしまったという。うわあと思う。しかも全然反省せず、つまりなぜ告白したかといえば、行くはずだった日曜学校のピクニックへ行きたいがための告白。であるからあっけらからんと、じゃあピクニックに行かせてねなどとアンは言うのだが、もちろんそんなことをやったアンを許すはずがなく、今度はアンが逆切れ。
しかし、結局はマリラの勘違いが発覚し、ブローチが出てきた。じゃあ、あの告白はなに、となるが、ピクニックに行きたいがための嘘。
そう考えると、最初からアンはやってないと正しいことを言い、ピクニックに行きたいがための嘘を吐いたという程度の話で、そんなにひどいヒロイン像ではないはずなのだが、話の運びがうまかったのか、それともまずかったのか、アンがひどい女の子という風にこの2話の半分以上で描かれていたためか、強く印象付けられてしまった。
そしてこのあと、そのキャラクターに慣れたためかもしれないのだが、急速に、普通の女の子向けアニメヒロインを擁したアニメになっていく

※10/30
14-23まで
普通の女の子向けアニメヒロインと上に書いたが、例えばその典型、ダイアナの母親に誤解され、ダイアナとの仲を裂かれるが、ダイアナの妹の病気を献身的に看病し助けたことで誤解が解けるなどというエピソード(16話と18話)。このダイアナとの仲を裂かれるエピソードも上に書いたブローチの件と同じようにマリラのミスが元
21話の序盤が面白い。嫌いだった先生が去るころになり、泣くわけないわと友達たちとも話していたのに、別れの挨拶を先生が始めると一人の女の子が泣き出し、それにつられてみんなが泣き出すという話をたくみにアンが話す。
登場のところからそうであり、そこがアンの特徴であり、最初のころうざったいと感じさせた原因でもあるのだが、饒舌さ、妄想の広がり、文学的、そして演劇的素養、ここらへんがよく出ている。このアンの特徴が文学的に評価されてる由縁なのだろうなと思う
アンはこの後小説家になるというような話なのだろうな、きっと(まだ結末は知らない)。作者の自伝的小説、そこまでいかなくても自分の体験が元になっているとは聞いた

※10/31
24話に目立たないが面白いところ。屋根から落ちたアンに向ってダイアナ「一言でいいから口をきいてちょうだい、死んだのかどうか言ってちょうだい」
今日はこの回だけ

※11/1
25-33
24話でアンが怪我。25話、見舞いに来なくなったダイアナを心配しての回想場面多し。
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作画が安定している「世界名作劇場」シリーズにしては珍しく動画の乱れが存在しており、時々マリラがコマ送りで移動する、マシュウの髪・ヒゲの色が煩雑に変わるなどの事例がある(特に23話が顕著)
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とあり、この25話ではアンがダイアナに向けて手紙を書く場面、同じことを書いているという映像が二回流れる

※11/2
34-40

※11/3
41-50

見終えた。最後の方は快調だった。
感想としては上に書いたことの繰り返しになるが、11-12話まではアンのうざさにイライラしていたが、そこ以降なぜかそれを全く感じなくなった。キャラに慣れたからだろうか、作風を変えたようには見えないのだ。

集中できずに見ていたがそれは生活のせいだと思う。上に見るの止めようかなと思ったなどと書いたがその面白くなさも多少は影響してるかも。
回を追うごとに面白くなり、それはあの13話が分岐点。
ただ、自分の今見るべきものではないなという気はする。
回想場面が多い(やけに回想場面が多い回というのも存在している)がそれのほとんどを覚えていることからも、集中できないと言いながらもちゃんと見れてるなとも思う。

サブタイトルが結構優れていて、タイトルを見るとエピソードを思い出せるようになっている。一方「・」の使い方が・・・。
「マシュウ・カスバート驚く」、これはいい、「マシュウ・カスバート」っていう名前だ。
「アン・心の友と遊ぶ」、これはどうかなあ、「・」よりも「、」じゃなかろうか、と。もしくは半角の空白とか。「アン,
心の友と遊ぶ」「アン 心の友と遊ぶ」
ここらへん、規則が一定でなく、同じようなところで「・」(10章)「、」(17章)「半角の空白」(23章)と色々使われているし、8章では半角空けもない「アン日曜学校へ行く」というタイトル


アンが大人びる姿になるのは第37章「十五歳の春」だったはず。
ただその前も第1話のときと第36話のときで成長していたようにも感じた。絵柄は変わらず、セリフでそう見せていたのかもしれない。
そういう中で他のキャラクターも成長しているのだと思う。ダイアナの妹、ミニーが結構成長している姿が映る場面がある。ここら辺の場面ではもう超脇役でセリフはないが。
一方ダイアナ、これも成長した絵柄になってはいるのだろうが、服装が黄色で最初のころと同じように見え、それが幼児っぽく見える
マリラは最終回でなぜか急に声が衰えたものになる。これは劇中でも指摘(昔のそっけない口調を一瞬取り戻したように言った、とかなんとか)されているから意識的なものだろう。

これは取りあげるまでもないことだが。
カスバート家の使用人、ジェリー・ブート。この描き方はどうかなあ。ほとんどセリフらしいものもなく、登場したときもそれなりに説明はあったのだと思うが、印象に残らない。ながらも食卓を一緒に囲んでいたり、その際アップになったりで、なんか意味ありげで、話に絡まないなら邪魔という感じ。一切描かなくてもよさそうで、いや、カスバート家に使用人がいたということの描写は必要というなら、もうちょっと控えめでもよいかと。
まあ、結局は一回だけエピソードに絡んではくるのだけど(自分の食べようとしたりんごをアンに食べられてしまい、それは猫いらずの薬を塗ったりんごだと冗談を言い、真に受けたアンは遺書を書く)
終盤に出てくるカスバート家の使用人、マーチン。
この人の登場はジェリー・ブートよりいい。グリーンゲイブルズに戻ったアンにマリラが紹介する場面が入る。
そしてこの人、おれは悪人なのかと勘違い。だってこの登場の回(46話)の次の回にマシュウが倒れることになるのだが、チラチラと意味ありげにマーチンがアップ。そして次回のサブタイトルが「死と呼ばれる刈入れ人」。この刈入れ人というのはマーチンなのかと。ちなみに、それの前の回の次回予告ではナレーションで「死を呼ぶ刈入れ人」と言っている

そうそう、次回予告。内容を言ってからサブタイトルを言うという形式でずっと続いていたが、なぜか最終盤になると、サブタイトルの紹介をするだけになった。

テーマとしてはまずは少女の世界。大人にとって他愛のないことでも子供にとって大事なこと。
大人の真似事をして背伸びする年頃、ままごと遊びなんてのはその典型である。
さらにはアンの風変わりなキャラ。饒舌、空想。
時折翻訳したまんまのような回りくどい言い回しがあり、それが舞台劇のようでもあり、それが少女の間で交わされると大人になりたいと背伸びしている少女、そして彼女たちならでは世界観をよく表せていると思う
中盤以降では少女から大人になる女性の成長

マリラからの観点
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監督の高畑勲は原作に忠実な作りにした理由として、会話劇のおもしろさやアンやマリラなどの登場人物それぞれの立場に立つことで二重に楽しめる構造など、原作の良さを活かすためとしている
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こうあり、そこはおれも気づいた。少女向けのアニメにしてはマリラからの観点が多めに入っている。

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原作でアンがダイアナとの家の間に横たわる森に「お化けの森」と名づけるくだりのように、原作にありながらもアニメではカットされているエピソードもある
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「お化けの森」って終盤にセリフとしては出てきていた。こんな呼び方してたのあったっけと思ったので気付いたのだ。
最終回、ダイアナの家に向かうアンの場面のナレーション。
この直前に上記マリラの最終回の口調の場面がある。

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マシュウ・カスバート
第48話の墓標は1813-1881
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1881が1831に見える
最終回では1881となってるのが映ってる

自分の実感では4部構成。これは実際に4部構成になってるとかそういうことではなく、あくまでも自分の実感。
まずはうざいアンの時代。12章まで
13章以降、まったくうざいアンがなくなる少女時代のアン。
37章以降、キャラクターの絵柄が変わる青春時代のアン。
そしてマシュウの死を扱う46章以降

うざいアンとか書いたが、アンやこの作品の概要をわかった上でもう1回見たら、序盤もさほどではないのかな。
またマシュウとマリラ。風変わりな二人だと思うが、そういえば「アルプスの少女ハイジ」(これも高畑勲や宮崎駿が関わっている)のおじいさんも風変わりな人なのだと、先日見たNHKの「100分de名著」で知った。

※追記(11/4)
再度11-12話を早送り再生で視聴

まず2時に帰るという約束をアンが反故にし、2時半帰宅、さらにはそこからマシュウとおしゃべりして結局マリラに呼び戻され2時45分
注意されるとアンのうざさ爆発。ここがポイントになると思う
その後ブローチの件
ここでは視聴者に勘違いをさせる演出(アンがブローチを胸に付けたあとに、家から走り出る姿をマシュウが見守るという絵柄が入る)が入っているがこれは 劇作として普通だろう
その後は正直に話すアンと誤解をしたマリラの構図で続く。もちろん勝手にマリラの部屋に入ってブローチを触ったというアンの失態もあるにはあるが。

その後、アンが何かをやらかしたと誤解をさせる演出が多少ある。例えば12章、サブタイトルが「アン・告白する」、さらには冒頭のナレーション、白状をしないアン。
冒頭のアンのうざさがあるからこそアンが嘘の白状をした時にうざさが倍増。さらにそこでの嘘の白状は彼女得意の大げさな芝居がかった作り話が炸裂。そしてその嘘の告白についてアンはほとんど罪の意識がないと思われ、その証拠に白状したから当然ピクニック行ってもいいよねと、ここでもまたもやうざさが出てくる
しかし構図を見るとアンは正直に物を言い、マリラが誤解しているだけなのである
全てが解決した後にはアンの中では嘘の白状を軽い気持ちでして当然ピクニックにも行けると思っているだけのこととも思える