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落語研究会(~2020.3) [毎回視聴]

「日本の話芸」を見始めて、思い出して今月からこっちも録画視聴することにした。「日本の話芸」よりこっちのがいいメンバーを出してくるイメージ。あちらは人気者という観点より、古典芸能を救うみたいなところにも眼目を置いているイメージである。

今月の放映スケジュールはTBS地上波で月に1回、BSTBSで月に2回(1時間版と2時間版)の放映ということのようで、TBSで放映されたものが翌月BSTBSで放映されるというようなスケジュールのようだ。

深夜深い時間帯の放送。どちらの日付で記述すべきか(日が改まっているので)。公式ではTBSのほうは日が改まっての日付、BSTBSのほうは前日の日付になっている。TBSはAM4時から開始、BSTBSはAM3時からの開始ということで、AM4時は日が改まっているという解釈か
またいつ行われたものかなどの情報が公式のほうにはあまり詳しく掲載されておらず、ほかの番組情報のサイトと齟齬も生じているようで、まあそこらは詳しく調べる必要もないのでとりあえず併記しておく程度にしておく。

TBS
2月16日 「派手彦」柳家小満ん(2/16のAM4時(2/15の深夜)から1時間)
BSTBS
2020年2月20日(木)放送(2020/02/21 03:00 ~ 2020/02/21 04:00 (60分))
落語研究会▼第178回「福禄寿」柳家さん喬
2020年2月22日(土)放送(2020/02/23 03:00 ~ 2020/02/23 05:00 (120分))
落語研究会▼「盃の殿様」柳亭市馬、「やかんなめ」春風亭三朝、「宿屋の富」瀧川鯉昇
(※BSTBSの公式には2/20、2/22ともに「第178回落語研究会」とあるが、他のサイトによると、多分収録日のことだと思うが2/20のものは2020年、2/22のものは2018年となっている。またTBS公式には公演予定も掲載されており、この公演の中から一席、多分主任のものが本放送として放映されると思われる。なので、その内容もコピペしておく。
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第620回 「落語研究会」のご案内
日時 : 2020年2月26日(水)よる6時開場 よる6時30分開演
場所 : 三宅坂 国立劇場 小劇場
【演者】
桂宮治      
柳亭小痴樂    
桂吉彌      「胴乱の幸助」
桂やまと     「ひなつば」
柳家喬太郎    「夢の酒」
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テレビでも上記公演の告知があり、そこでは上の二人の演題も出ていた。桂宮治が「権助芝居」、柳亭小痴樂が「巌流島」。ちなみに上のふたり、桂宮治、柳亭小痴樂は「成金」のメンバーである。つべに上がっていた成金の動画を見たのだが、彼らの根城が東京・西新宿のミュージックテイトというそうだ。多分、おれはここの近くに住んでいて、この店の前を通ったことがある。落語会のチラシがたくさん置いてあり、これなんの店だろうと異様に思ったのだ、あの店がそれか。


感想(2/23-25に視聴。視聴順)
「盃の殿様」柳亭市馬。
京須が市馬に勧めたというような話をしていた。京須さんも長い。おれが時折見ていたころもやっていてそのころも老人だった。まあ今はかなり老いも極まってきているようである。調べてみると2006年からこの番組に出ているようで、それより以前にこの番組をやっていて有名な榎本滋民は2003年に亡くなっているようで、その間は誰が出ていたのだろう。また、おれが時折見ていたころというのは1990年代あたりのことを想定していたのだが、まだそのことは違ったか。もちろん榎本滋民のほうも覚えていて、昇太がそのパロディをやっていたというような話も以前に書いた。
圓生の「盃の殿様」も放映していた。最初から流し始めたのでまさか全部やるのかなと思ったが、ほんの少しだけだった。圓生のものもこの番組の収録のやつで以前に見たことある。それこそ1990年代に落語番組を録画録音していたころのことで再放送でもあったのだろう。
市馬、言い間違えが多少目立つ
「やかんなめ」春風亭三朝
「盃の殿様」は解説入りだが、これはなし。「盃の殿様」のほうは本放送があったということかな。
春風亭三朝、初めて見たし、初めて名前を聞いた。一朝の弟子で一之輔の弟弟子ということのようだ。軽い話し方。あまり好みではないな。
「宿屋の富」瀧川鯉昇
これも解説なし
「1分取られちゃった」という言葉、それに類する言葉もなし。これは入れたほうがいいのでは。その後の行動で、彼が一文無しということはわかるにはわかるのだが。
「宿屋の富」は初めて見たときから、そして今でも、オチは大したことなく、またくじが当たったかどうか確認する場面で、当たってるのに、「わずかな違いだ」とか言うところがあまり面白くもなく好きでない。大ネタであることは知識としては知ってるが。後者のわずかな違いだというのは分析をすればリアリティが薄く、リアリティを無視して笑いを取りに行ってるのに笑いも少ないといったところか。番号が同じなのに、どうして「わずかな違いだ」となるのやら。
「福禄寿」柳家さん喬
見る段になり、この番組は解説がかったるいんだよななどと思いながら見始めたのだが、この回の解説は今回口演するさん喬が二つ目時代にこの噺のネタおろしをする圓生の高座を見ていたという面白い話が聞けた。
解説概要
円朝の作品であること。
福禄寿という題。福禄寿は七福神のひとつだが、ここではそれとはちょっと違う意味で使われている。福、禄、寿とは何か、そして人間の幸せとは何かということがテーマとなっている。
「真景累ヶ淵」、「牡丹灯籠」などは、円朝が20歳ころに作ったものだが、この作品はそれより相当に後になっての、明治20年代、円朝が40代半ばに作った。「文七元結」、「鰍沢」とはまたちょっと違う近代性を感じさせる明治の東京を舞台としている。
そのころ円朝はもう文化人ともいえる存在で、山県有朋、井上馨が率いる政府の視察に同行し北海道へ行ったことがあり、そこから円朝は北海道を舞台にした話もいくつか作っている。そしてこの福禄寿は北海道そのものを舞台にはしていないがその副産物としてできたような話である。円朝自身は「北海道で聞いた話に色をつけました」と話している
(どんな演者がいたかという問い)
時代に逆らうかのような教訓めいた話でゆえ円朝直系で細々と演じられてはいたのだろうが、話が地味であまり演じ手はいなかった。
昭和54年7月31日の東横落語会、これは「円朝まつり」と題された会であるが、ここで圓生が初演したのを(京須さんが)見た。それからすぐに圓生は亡くなった。今回演じるさん喬は当時二つ目でなんとこの高座を見ているとのこと

「福禄寿」という題についてだが、登場人物が福さんと禄(ロク)さんである。
話の内容はあまり面白くもない人情噺である。出来の悪い息子と出来の良い義理の息子、そして母親。息子が金の無心に来て母はそれを断るも、押し切られて言われた300円を渡す。その300円を落としてしまい探しに舞い戻ってきて、母とその義理の息子が話してるのを聞いて、自分への強い愛情を感じ、そこに出ていき、300円はいらない、ただ10円貸してほしい、それでやり直すといい、それを元手に偉い人になったというような筋。

300円を300両と言い、すぐに300円と言い直す場面が二回ほどある。これについて解説で触れていた。この時代に1両を1円と変更されたのだが、それにより庶民は混乱して、結構長い間、「両」という言葉が使われていた。そこら辺を表現しているのだろう、と。長岡アナは「言い間違えたのかと思いましたがそれを二回やってるところからそれがわかりますね」と。

さん喬と小さんについて。
以前に書いたと思ったが書いてなかった。
小さんをおれはたしか3回見ている。1回は三升家小勝襲名披露で鈴本。襲名が1994年9月とあるから、そのころか。95年、阪神大震災やオウムのころよく落語を見ていたのを覚えているし、そうそう初めて見に行った落語会がその前年の夏休み興行。だからその直後か。
この夏休み興行というのはおれが夏に野外コンサート遠征に行った。たしか豊橋。ネヴィル・ブラザースがメインでアラン・トゥーさんやらダーティ・ダズン・ブラスバンドが出るという。ほかにアイク・ターナーもいた。あと日本勢は上田正樹だったか。
まあそれはそれとして、帰ってきて新宿駅地下をうろついていたら落語会のチラシ。おれはその前年あたりの落語のピンで完全にはまっており、寝ても覚めても落語。なのだが、見に行くという発想がなく、録画した落語のピンを延々リピート。だから今でもその番組での談志の落語は覚えている。
そのチラシを見たときの衝撃。あーそうか、見に行けば落語って見れるのか。見に行くという発想がまったくなかったのだ。
行ってみた。自分はちょっと遅れて着いたんだったかな、前座とかは見逃し初っ端が志らく(その日のプログラムの最初の人)。立ち見
あまり覚えていないが、中トリが円丈。
トリが談志。「おれが客を信用してるんだ、なのに円丈なんての見て笑ってるもんだから呆れた」などと毒づき、「なんかやってほしいのある?」に客席から「らくだ」談志「らくだか~ よーし」
すごいやり取りである。おれはらくだという落語を知らなかったか、名前を聞いたことある程度だったか。内容は知らなかったので、その日の談志をよくは覚えていない。立ち見だったしね。でも今思い出してもすごい。
さらりと書いたが変な内容の興行でしょ。確か談志がこの日だったか、最終日だったかに言ってた「協会のやつら怒ってるだろうな、末広なんかガラガラだろ。ここがこれだけ盛況になって、○○先生(講談の一龍斎何某の名を上げて)のご尽力でこういう興行がやれて感謝」というようなことを言ってた。
国立演芸場で10日間。昼の興行だが、土日だったか日曜日は昼夜。面子は日替わりなのだけど、4日目くらいから談志が出ずっぱり。確か最終日あたりに昼夜興行があり、文治と二枚看板。トリと中トリを交代で務めてた。この時文治を初めて見た。「寄席ってのは10日感毎日同じ人が出る・・・んだけど明日のほうがちょっとだけ面白い。」最終日なんかは「来月にも私はここへ出るんですが、そっちのほうがちょっとだけ面白い」
結局そのらくだの談志初日から毎日のように通い、その後ひとり会の存在を知り・・・という具合。
独楽のやなぎ女楽なんて人も見たな・・・とここまで書いて、これについてはもう書いてることに気づいた。
話がずれた。小さんの話。その小勝襲名披露、志ん朝もいたように思うがいや、いなかったかなあ。小さんは「親子酒」。それが終わると帰ってしまう人もいた。襲名披露だってのに。満席というほどではなかったと思う。
そしてその後、紀伊国屋寄席で二度小さんを見た。もうそれは晩年といってよいころで、最後に見たときのことを書こうと思ってるのだが、その前に見たのはその一年前くらいだっと思う。この日はトリの前に出てきて「親子酒」。もう足取りがおぼつかず、ゆっくりゆっくりと帰って行くと、袖に小さんが消えた瞬間に入れ替わりで文治がせかせかと出てくる。「あたしは気が早いもんで・・・」火焔太鼓かなんかやってたかな。微妙に志ん生ゆずりのものをよくやっていて、それはとても文治にはお似合いなのだが、系統が違うのでいいのかなと思ったことがあった。そのずーっと後になって、誰だったか、ゆかりの人(文治一門の人か古今亭一門の人か)がそのことに志ん朝が多少不快(本来あれは古今亭のものなのだが、というようなこと)を漏らしてたというようなこと書いていたのを見た。
さて、最後に見た小さん。後になってあれはいつだったかと調べたら、結構印象深い日だったので驚いた。2001年911があり志ん朝さんが10月1日に亡くなり、その間の日、9月20日くらいだった。
そんな世界が大騒ぎの日に落語を見に行ってたか、志ん朝さんがもう死の床についてるのにそんなことに気づかず呑気に落語を見ていたか。
その日、小さんは笠碁。このことについては後日立ち読みした落語の本に詳しく載っていて、ああ有名な話になったんだなと思った。
笠碁は終われないのだ。落げの「お前さん被り傘取らねえ」を言ったのに、なぜか二人(もちろん小さんが二人を演じている)は碁を続ける。「おい」「おう」「どうなんだ」「おう」みたく声を掛け合いながら碁を打ち続ける。客席は静まり返る。おれはドキドキした。数年落語は聞いていて笠碁も知ってはいるが、ものすごくよく知ってるわけではない。もしかしたら、先に書いた落げとはべつに本来の話は続きがあるのかもしれない。それがかなりの長時間続き、いやほんの数分かもしれない。小さん「おーい、さん喬いないか」その日の中トリさん喬が洋服姿で飛んで出てくる。「おい、これ落げ方忘れちゃったよ」さん喬「師匠、もうそれ落げの言葉言ってます」小さん「えー、そうかあ?」さん喬「はい、お前さん被り傘取らねえって」小さん「ほんとか~」さん喬「ええほんとです」小さん「(疑り深く)ほんとかあ」ここらへんの最後のやり取りあたりでは小さんもミスに気付いておどけて笑いに持っていっていた。
そこからどんなだったかな。確か小さんがこの噺の芸談、誰々と誰々の型があってどうのこうのというような語りが始まり、またそこで機転を利かしてさん喬「さて、今日は特別です。小さん師匠へ質問コーナー」と声を張り上げたりしてた。でもそこで誰か質問なんてしてたかな、雰囲気はかなり硬かったからな。この質問コーナーとか言い出したあとに小さんが芸談を語り出したのだったかもしれない。
まあそこらが一段落して、客席から「小さん師匠を拍手で送ろう」なんて声がかかり、拍手で終演。

「派手彦」柳家小満ん
小満ん、あまりよくは知らない。だみ声で淡々と平板に話す人だが、それが味になっていてなかなかよい。

BSTBSの番組終了後に次回の予告が出るがその際の映像と予告の内容が合っておらず(TBSでやったほうは合っていた)、どういう意図なのか困惑。

出演者
解説:京須偕充
聞き手:長岡杏子( TBSアナウンサー )
となっている。このやり取り。悪いことでは全くないが聞く内容とその答えが台本になっているようで、京須さんが言い淀む場面が結構あるのだが、そこで聞き手の長岡アナが助け船を出して、答えを先導しているような場面もちらほら。
また常に、この演題の演じ手はどのような方がいましたかという質問が出るのだが、今回の解説のあった三席はすべて六代目圓生が埋もれていたのを速記から掘り起こした的な内容。
この番組自体そもそも六代目圓生を残すための番組というような性格もあり、おれもおれが落語に興味を持ったのはすでに圓生が亡くなってずいぶん経っての頃だがそれでも時折放送されており、この番組での口演を結構な本数見てる。
始まりの時の「今日もよろしくお願いします」に「こちらこそ」とそっけなく返す感じ、榎本滋民もそうだったような記憶がある。

※追記3月分
TBS
「宗珉の滝」古今亭志ん輔
解説:京須偕充
聞き手:長岡杏子( TBSアナウンサー )
2020年3月15日(日)あさ4:00〜

BSTBS
第179回落語研究会
3月19日(木) 深夜3:00~4:00 内 容:「派手彦」柳家小満ん お 話:京須偕充 長岡杏子(TBSアナウンサー)
第177回落語研究会(2時間版)
3月21日(土) 深夜3:00~5:00 内 容:「文七元結」柳家權太樓、「らくだ」古今亭菊之丞 お 話:京須偕充 長岡杏子(TBSアナウンサー)

「宗珉の滝」古今亭志ん輔
志ん輔は志ん朝の弟子。仕草、言葉の調子など節々でびっくりするほどそっくりな箇所がしばしば。師匠に教わっているんだから似てくるだろう、師匠に憧れているんだから真似してるところもあろう。名人の真似をしているという嫌悪感は不思議と少ない。
落語本編の前後に入る京須さんの解説が異様に短い、つまりは本編がとても長いということだ。
その京須さんの解説によれば、元は講談、志ん生が落語にもってきてやりだした。当時は志ん生以外やる人はおらず、志ん朝が時折やっていた程度、で志ん朝門下に広まったという経緯。
志ん輔のものは志ん生にも志ん朝にもなかった人生の奥に突っ込んでくるという演出が加わっているとのこと。

途中「金明竹」に話が脱線。「あの橫谷宗珉というのはなんか耳にあるなあと思っていたんですが「金明竹」に出てくる、アタシ(志ん輔自身のこと)はそれをやらないで・・・。」と言いつつあの言い立ての部分をやりながら解説。
そういえばつべに志ん朝のこのネタが上がってたな(なぜか最近つべを見ていると関連のところにこれが上に出てくるのだ)、と勢いでこの録画を見終えた後に志ん朝のものも視聴。
比べるというようなことはしないしできない、集中力がないので詳細な分析ができないのだ、ただ気付いたところをいえば、志ん朝から習っているのだから当然だが、言い回しがまったく同じという箇所も多数、ただ、ここが同じだと気づくということはそこ以外は違っているともいえるわけで、ここらもそっくりコピーしてるわけではなかろう。
志ん朝を見終えて、志ん輔のものを早送りで確認してみて気付いたが、上記「金明竹」の件(ここから宋珉の作るものの解説)もしかり、志ん輔のものはかなり多くの脱線がある。酒を昼から飲むのは気分がいいという話や腕が上がってきたときに賞をもらうと慢心してしまうという話など。話の本筋以外に話をすることで客の興味を引っ張り続けるという工夫だろう。
明確に違うなというところが一か所。宗三郎の拵えたうさぎの細工を見たときに岩佐屋は志ん輔バージョンでは「かわいく作ろうと最初から思ってるからあざとさが出てしまってる」としているが、志ん朝のものでは「うさぎにはもっとかわいらしさがほしい」と真逆の評価。
上下の切り方が微妙に異なっておりアレレと思った。志ん輔のほうは割合単純でわかりやすい。
序盤、客である宗三郎が上座、岩佐屋主人が下座。この後は一貫して岩佐屋が上座、宗三郎が下座。また木村又兵衛と岩佐屋の場面では、木村又兵衛が上座となる。
志ん朝のほうでは、工夫なのだろうか、上記に対し例外がある。序盤の場面で、虎が死んでると言われたところで、上座にいた宗三郎が下座へと転換。
また、献上したものの断られる場面の1回目、岩佐屋が戻ってくると、岩佐屋が下座、宗三郎が上座という風になっている。ここらへんが志ん輔のものと違っていた

「文七元結」柳家權太樓、「らくだ」古今亭菊之丞
(コピペしたらこんな表記だが、「柳家権太楼」という表記が多い。公式もそうなってる)
続けて視聴、さらに「日本の話芸」の遊三も連続視聴。珍しく集中力があった。約2時間半である。
おれは「落語のピン」の談志で落語を知り、見に行き始めたのは1994年。で、そのころ談志の高座、ひとり会のビデオを購入した。6巻組、その中に文七もらくだも入っていて、何度も聞いた。談志の中で特別に好きなもので上位2本としてもいいくらい。であるから、全部を記憶しているというわけでもないが、ほぼすべての場面でそのビデオの中で談志がどういう演出をしていたか、どういう間でどう話したかが記憶に刻まれているらしく、他の人のを聞いていても、聞きながらそれとどう違うか比べてしまいがち。
で、ここでも多くはそういう観点で書く、とくに「らくだ」。といっても誤りが多いかもしれない。おれは談志オリジナルの演出だと思っているものだが、実はそうではないということも多いことも知っている。そういえば談志オリジナルだと思い込んでいたものを昔の落語家がやっていたのを聞いたことがある。「おれたちの仕事は他から仕入れたものをよそに回す・・・ブローカーみてえなもんだ」、いかにも談志らしい乱暴な言い回しでそんなことを話していたのだけど、たぶんラジオ深夜便だと思うが、そこで昔の落語家、確かお婆さんの今輔がほぼ同じようなことを丁寧な言い回しで言っていて(確か無観客の口演だった)驚いたものだ。
「文七元結」柳家權太樓
マクラはあまり関係ない外国旅行での失敗の話、そして「文七をやるネタの前じゃないねえ」「アタシねえ受けないと嫌なのよ」「気持ちを切り替えよう」「ここから代書屋に入るとすごくいいよ」などと話す
1か所、他の人と明確に違うところがあった。佐野槌の女主人が借金を返す期限を決めるところで、50両全部でなくても仕事をして今月はこの分ですと持ってくる、お前が一生懸命働いているところを見せてくれれば娘を返す、だけど、この金でまたバカな真似をしたら、「そんときはアタシは鬼になるよ、この娘店に出すよ」と約束にするところだ。ここはこれまで聞いたものでは全部50両を期限までに返せなければ・・・という風になっていた。
アタシは鬼になるよ、というあたりのセリフは有名なのだろうか。おぼろげな記憶なのだが、志らくがこの落語でなく全然別の話をしているときに、このセリフが出てきて客席が湧いていた。客席はそれが文七の中のセリフからの引用だということに気付いていたのだろう。おれは後になってこれが文七の中のセリフということを知った。
ラスト、文七とお久が夫婦になって、というくだりは、大抵「地の文」でやると思うが、ここでは最後の場面の続きとしてやられる。鼈甲問屋の主人が娘さんを文七の嫁にくださいと言い出すのだ。それに長兵衛が文七は立派な若者だ、ぜひもらってやってください、ついでにおっかぁも・・・と笑いにつなげてはいるが、文七が立派な若者というのはどうかなあ。こんな失態をしでかして商売人に向いてないくらいの男だと思うが。
談志と柳家権太楼
談志を好きになったころ、フジテレビだったか深夜の番組で談志が取り上げられてた。なんの番組だったかな、特番ではなく、毎週やってるもので、各回で一人を取り上げるドキュメンタリータイプのものだったと思う。「情熱大陸」のような。「死」をテーマにしていたが、それは談志の回だけそうだったのか、番組自体がそういうものだったのか、確か後者だったような。
先に書いたビデオに「幽女買い」というのが入っているのだけど、確かその映像を流していた(落語のピンでもこのネタをやっていたから、そっちを流していたかもしれない)。死がテーマだからだ。
ま、それはいい。その番組で談志が楽屋から高座へ移動している際に隣に権太楼がいて、会話を交わしている場面があった。たぶんおれはそれを最初に見たときは談志にしか目が行かず、しかも権太楼のことを知らなかったかもしれない。その後談志以外も見に行くようになり(落語熱が高まりすぎて談志を追っかける程度じゃ毎日が埋まらなくなったのだ)、権太楼を知り、その後ビデオで見直して、あっ権太楼が映ってると気づいたのだったと思う。それの前か後か、権太楼が談志をかなり好きだったということを知った。これもテレビ番組でテレ朝だったかな、深夜に落語を放送していた。それは割と短い間で終わってしまい、おれは権太楼の回と圓蔵の回を見た程度だ。そこでのインタビューで談志に憧れて、くらいのことを言っていて結構びっくりした。それであの二人で会話している映像がちょっと別の意味を持ってくるように思えたものだ。
その会話の場面は確かこんな感じ。談志「前のやつは何を演ったんだ」権太楼「えーと、○○(ちゃんとネタを言っていたと思う)と・・・、それからなんかやってました」談志「なんかか、どうでもいいやつだな」権太楼「どうでもいいやつです」みたいな・・・。いやちょっと違うな、記憶が違うと言っている。
権太楼、前の名前がさん光、82年に権太楼で真打(抜擢)、確か談志がこのさん光が真打に今度なるけど、というようなことを漫談でやってたのを記憶している。あれはCDにあったやつだっけな。
一応二人は兄弟弟子。談志は83年に真打昇進試験について揉めて、協会を脱会しており、この権太楼が真打に上がるときにも色々思うところはあったのだろう
「らくだ」古今亭菊之丞
談志とは縁遠い落語家のように思うが、おれが知らないだけかもしれない。関係性はわからないのだが、意外や意外、ちょっと談志風味に感じられた。
セリフもまったく同じというところが一か所あった。まあその部分が談志オリジナルかどうかはわからないが。(商いにはなあ雨降り風間病み患いってのがあるんでえ。一日や二日商い休んだからってなあ釜の蓋が開かねえ、そんなドジな屑屋と屑屋の出来が違うんでえ、この野郎。いいかる注げよ、注げってんだよ)
談志のもので一番笑いが出るところは「あのときおれあの野郎やっちまおうと思った」というところ、そしてそれに続いて、「でもできねえ・・・」とそんなことしたら釜の蓋が開かなくなると嘆き、そして「おれを見くびるんじゃねえぞ」と返す一人酒乱のところだ。
菊之丞はそれをそっくりそのままやってるわけではないが、「あのときおれあの野郎やっちまおうと思った」に近いセリフが出てきていた。
またらくだのしみじみする状況描写、「汚い野良ねこを膝の上に可愛げに抱いてやがる」なんてのも談志のに近い。これは翌日行ったら、ねこの毛皮を買わされそうになったと笑いにつなげている。確か談志はらくだのそういう描写をしたあとはそれ自体を茶化して笑いにするようにはしていなかったと思う。
菊之丞版ではらくだの兄貴分(その兄貴分の自己紹介ではらくだのほうが年上だがヤツはおれのことを「兄い」と呼んでいたと言っている、また屑屋は皆に触れ回る際に「兄弟分」と言っている)は丁の目半次と名乗らないのだけど、その兄貴分と屑屋が逆転してしまい、ついには兄貴分が屑屋を「兄貴」と呼ぶ演出も談志版で笑いが大きいが、こちらでもそういう風に呼ぶという演出がある。これも談志オリジナルかどうかはわからない。この場面は通常の「らくだ」ではやられない後半部分。今回の菊之丞版では落げまで。落げは「冷やでもいいからもう一杯」というやつ。確か圓生がこうやってる。落げまでやったからかもしれないが、通常切るところであるマグロのブツ持ってこい、くれるのくれないのいったら死人にカンカンノウ躍らせろという場面はなかった。

屑屋は「おふくろとガキとアタシと店賃の四人(よったり)暮らしなんですよ」「ええもうあのかみさんはね、早くに死んじゃったんですよ、もうねえ散々っぱら苦労かけてね、もうほんとにもうなんのいい目にも会わせないで死んじまってもう可哀そうなことしました」「でもおふくろがまだ元気でござんす、ガキが近頃ね小さい手でお酌なんぞを覚えまして、「父ちゃんお酌」なんてね、子供のその小さい手でもってお酌をしてもらう、その一合の酒を飲むのがいま楽しみで」「こんなしがない商売をしておりますが、おふくろも喜んでくれて」というようなことを言ってる